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ブルックナー:交響曲第4番

ブルックナー交響曲第4番
ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団
指揮:ルドルフ・ケンペ
録音:1976年

 

ケンペは、クナッパーツブッシュ、シューリヒト、マタチッチ、朝比奈隆と並ぶ古今回臨のブルックナ一指揮者の間には到達していませんが、彼らよりも一段下のクラスには優にランクされ得る筈といわれています。
つまりヨッフムと同等です。
カイルベルトの「第9」、ベイヌムの「第8」、ワルターの「第4」、ベームの「第3」などもこのクラスに入れて良いが、これら以外の演炎はがくんと落ちると思われます。
ブルックナーの場合、良い演奏と悪い演奏の差は、他の作曲家のときとは比較にならないくらい大きいからです。

ケンぺの「第8」は暗い、孤独の影を背負ったブルックナーでした。
雄大さにも、豪快さにも、立体感にも乏しく、しなやかな繊細さやウェットな人間味はブラームス的であって、普通このようなプルックナーは絶対に成功しないのですが、ケンペは根源的にブルックナーの視える指揮者なのでしょう、スタイルを超えて作者の心が伝わって来るのです。
言うなれば、やにっこさを極力排除したフルトヴェングラー調のブルックナーだったのでした。


反対に「第5」はスケールの大きい、堅固な造型を持った剛毅な演奏で、「第8」と同じ指揮者の演奏とは思えません。
この方が純正なブルックナーのスタイルですが、「第8」に比して、魅惑の花や寂寥感にはやや乏しく、彼のブルックナーがいまだ完成途上にあることを示していたのです。
そこで今回の「第4」ですが、スタイルとしては「第5」とまったく同じ、天に向って高く整え立つような趣きがあり、壮麗で彫りが深い。
しかし前回の「第5」が立派すぎる、というのか、時には今一つの人間味や音の魅力を求めたかったのに対し、「第4」には何ともいえないみずみずしさや親しみ易さがあって、いっそうブルックナーの世界に近づいたケンペを実感させてくれます。

第1楽章は冒頭のホルンがいかにも粘りのあるロマンティックな音です。
こういう音色でないと「第4」は始まりません。
弦のさざ波はきわめて弱く、それは盛上ったときの、全管をいっぱいに鳴らしたフォルティッシモの強さと対比させられます。
ダイナミックの幅が広いのは良いとしても、弱音部が弱すぎるのは、楽器の音色感を失うのではないでしょうか。
とはいえ、ケンペの場合は、そのピアニッシモ・アッサイの中に何か惣重なものがうごめいているのを知るのです。

ケンベは強音部でトランペットやトロンボーンを力一杯鳴らします。
それが決して無機的に陥らないばかりか、フォルティッシモにいろいちな段階があって、きわめて多彩な効果を挙げています。
そもそも、この「第4」という音楽はブルックナ一の交響曲中でも最もポピュラーな存在ですが、本当のブルックナーファンにとっては内容的にかなりの強い足りなさを残します。
作曲者の筆も、室内楽風に薄く書かれた部分が多く、指揮者にとってははなはだやりにくいみたいです。
つまり音楽自体に寄りかかることが出来ないのです。
ブルックナー交響曲も「第5」「第7」「第8」「第9」あたりになると、各パートの一つ一つの音符、一つ一つのフレーズを、下手な味つけをせず、愛情をこめて立派に弾き切ってゆけば、それによって築かれた全体が大きくものを言う結果となるのだが、「第4」ではそうはゆかない。
悪い言葉でいえば人為的に音楽を充実させなければならない。
ケンペは金管を「第5」以上に強奏させることによって、それを達成したのです。

もちろん金管の強奏だけではありません。
たとえば第2主題の豊かな表情などもその一つです。
このテーマはリズミックに書かれているので、主題自体を歌わせるわけにはゆかないのです。
ケンペは内声、特にヴィオラ(反復の際はチェロ)のパートを大きく歌わせることで豊かさを残したのです。

さらに例を挙げるならば、展開部終りの329~331小節におけるトランペットの音型、再現部後半の471~474小節におけるトランペットとホルンのかけ合いなどをはっきり生かした解釈も、曲の魅力を高める上で大きく役に立っており、他のどの演奏をも凌祝しているのです。

第2楽章のテンポは速い。ブルックナーの指定がアダージョではなく、アンダンテ・クワジ・アレグレットであるだけに、このテンポは音楽を生かす何よりの要素となります。
かのクナッパーツブッシュでさえ、この楽章のテンポは速く、それゆえに成功しているのです。

音楽は柔かく、親しみ深く進められます。
響きも透明で何の抵抗もなく、それどころか乾き切ったのどを潤してくれる水のように心にしみわたって来ます。
森の中の森のようなヴィオラの第2主題も同様です。
いかにも何でもなく、すでに伝統的となった4小節ごとのリタルダンドもごく僅かに、しかも抜細な感樹を通わせ尽くします。
92小節からの新しい音型についても全く同じことが言えます。

特筆すべきは再現部におけるオーボエクラリネットの美しさで、その透明感が時には瞑想を想わせ、魅惑の花を咲かせます。
本音のみずみずしさはこの第2楽章のみならず、「第4」全曲を通じてケンぺの大きな特徴となっているのです。
それと、この楽章最後のスケール雄大な盛上げは、思わず胸の高なるようなすばらしさです。

続くスケルツォでは木管の質感な閃きがかがやいています。
この楽章ではホルンの巧さももちろんだが、それ以上に大切なのか木管の緻密なかけ合いの妙です。
その点、ケンぺのリードは実に見事で、かつてのワルターにも匹敵するでしょう。
これでこそ第3楽章は楽しめます。
ことに229~230小節のフルート、オーボエクラリネットのトリルが、こんなにくっきりと聴こえた例は皆無です。

トリオは速いテンポですんなり運ばれる。
ここはもう少し遅いテンポの方が中間部の弦の音型が生きたのではないでしょうか。

フィナーレについては第1楽章とほぼ同じことが言えるが、木管の魅力、金管とくにトロンボーンの生々しさなど、この方かいっそう味が濃く、おそらくは「第4」全曲中でも最も見事な出来ばえを示した部分でしょう。

ケンペは堅実派で、特に効果を狙ったりはしない指揮者です。
それゆえ、第1楽章の終結など、いささか物足りないと思う人も居ようが、「第4」全体を通して、一つの雰囲気を持っているのは、この演奏の大きな特色であり、おそらくは第5以上の評価を生む原因となるでしょう。
「第4」の演奏ではクナッパーツブッシュワルターが代表的ですが、前者は改訂版)を使用したモノラルであり、後者はスケルツォを除いてオケの浮きがやや薄く、ケンペのはステレオの代表にしてもいいです。

最後に版の問題ですが、この録音のデータによると、使用楽譜は1878~80年版、出版はウィーン国際ブルックナー協会となっています。
ハース版も1878~80年版には違いないが、出版社が異るので、ケンベはノヴァーク版を使用していることになります。
この両版の違いはごく僅かであるが、スケルツォのトリオやフィナーレの終結はノヴァーク版の方が美しく、ケンペもこれを決定版と見たのでしょう。

しかし、「第8」でハース版を用いた彼は、それにも未練があるらしく、せっかくノヴァーク版を使いながら、楽器の生かし方にハース版の要素を取り入れています(ちなみに、ノヴァーク版の特徴を最大限に生かしているのはペーム=ウィーン・フィル盤です)。
たとえば第2楽章、101小節からのトランペット、第4楽座、249小節からのオーボエや、261小節からのクラリネットはほとんど聴こえず、いちばん問題となるスケルツォのトリオやフィナーレの終結も、前者ではフルートが弱く、後者ではトロンポーンが強すぎて、ノヴァーク版の特徴が抑えられハース版との折衷的な響きが生まれているのです。
その意味では甚だユニークなCDといえます。